「神様」と呼ばれた男には、孤独と葛藤があった。
エリック・クラプトン――ロック史上最も尊敬されるギタリストのひとり。
3度のロックの殿堂入り、幾多の名曲、そして「ギターの神様」という異名。
だが、その栄光の裏には、家族に愛されなかった少年時代、激しい依存症との戦い、愛する人との別れ、そして息子の死という、誰もが口を閉ざしたくなるような悲しみが横たわっている。
この記事では、そんなクラプトンの生い立ちから音楽、スキャンダル、名言までをたっぷりと紹介しながら、「なぜ人は彼の音楽に惹かれるのか?」を一緒に掘り下げていく。
- クラプトンとは誰か?簡単な人物紹介
- 複雑すぎる生い立ち|本当の母は誰?
- バンド遍歴と音楽的変化
- ジョージ・ハリスンとの友情と裏切り|“愛”をめぐる三角関係
- ブルースとの運命的な出会い|ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ時代
- 伝説のパワートリオ「クリーム」|ロック史に残る“音の爆発”
- デレク・アンド・ザ・ドミノスと「いとしのレイラ」|愛と苦悩の名作誕生
- ソロキャリアのはじまり|ギターより“歌”へ
- 愛と喪失を超えて|ティアーズ・イン・ヘヴンと再出発
- アンプを絞っても、情熱は消えない|晩年のクラプトン
- スキャンダルと転落|ドラッグ・アルコール依存との闘い
- 息子コナーの死と「ティアーズ・イン・ヘヴン」
- クラプトンを語る名言たち
- なぜ今、クラプトンを聴くべきなのか?
- クラプトンのギターが語るもの
- エリック・クラプトンと関わりのある有名人たち|友情・恋愛・セッションの記録
- 補足:他にも多数の共演者・関係者たち
- クラプトンは“人を惹きつける磁場”を持つ男
クラプトンとは誰か?簡単な人物紹介
エリック・クラプトンは1945年、イギリス・サリー州で生まれた。
彼はロック、ブルース、レゲエまで幅広いジャンルを弾きこなすギタリストであり、音楽ファンの間では“Slowhand(スローハンド)”の愛称でも親しまれている。
驚くべきは、彼がロックの殿堂に3回も選ばれているという事実。
ヤードバーズ、クリーム、そしてソロとして――それぞれが音楽史に残る伝説である。
「ギターの神様」と称された背景には、テクニックだけでなく、心の叫びがにじみ出るような“泣きのギター”がある。
複雑すぎる生い立ち|本当の母は誰?
クラプトンの人生は、生まれた時からすでに“波乱”だった。
彼が信じていた母親は、実は祖母だった。本当の母は16歳で彼を出産し、クラプトンが生まれてすぐにカナダ人兵士と共に去ってしまったのだ。
クラプトンは長年、この真実を知らずに育つ。そして真実を知ったとき、彼の中で「自分は捨てられた存在なんだ」という孤独感が強く根を張るようになる。
この感情は、後年のアルコール・ドラッグ依存、そして人間関係の問題にまで影を落とす。
バンド遍歴と音楽的変化
クラプトンの音楽キャリアは「ヤードバーズ」から始まる。だが、バンドがポップ路線に傾いたことで離脱し、次に加入したのが「ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ」。ここで彼のブルースへの傾倒が強く現れ始める。
そして、1966年には伝説のロックバンド「クリーム」を結成。パワートリオというスタイルで、テクニカルで即興性の高い演奏を展開し、ギターの表現力を新たな次元に引き上げた。
さらに彼は、「デレク・アンド・ザ・ドミノス」として『Layla(いとしのレイラ)』をリリース。だがこの楽曲の裏には、友人であるジョージ・ハリスンの妻・パティ・ボイドへの叶わぬ恋が隠れていた。
ジョージ・ハリスンとの友情と裏切り|“愛”をめぐる三角関係
クラプトンの人生を語るうえで、ビートルズのギタリスト、ジョージ・ハリスンとの関係は外せない。
2人は60年代から深い友情で結ばれていた。クラプトンはハリスンの自宅でよくギターを弾いており、ビートルズの『While My Guitar Gently Weeps』ではクラプトンがリードギターを担当している。
しかし、友情はやがて“恋”によって揺らぐ。
クラプトンは、ハリスンの妻だったパティ・ボイドに恋をしてしまうのだ。しかも、その思いは一方通行ではなく、パティもまたクラプトンに惹かれていた。
クラプトンはこの葛藤をそのまま楽曲に込める。
それが『Layla(いとしのレイラ)』だ。
“愛してはいけない人を、どうしても愛してしまう”
――その感情の爆発が、あの魂を引き裂くようなギターリフに込められている。
やがてクラプトンはパティに愛を告げ、2人は結婚する。
つまり、親友の妻を“奪う”形になってしまったのだ。
にもかかわらず、ジョージ・ハリスンはクラプトンとの関係を完全には断ち切らなかった。
離婚後も、3人はパーティなどで顔を合わせていたという。
そして、ジョージが亡くなった際、クラプトンは追悼のコンサートをプロデュースし、ステージでこう語った。
「彼は僕の兄のような存在だった。彼のいない世界は、とても静かだ。」
友情、嫉妬、後悔、愛情――
人間としての複雑な感情が、二人の音楽に深く影響を与えていたのだ。
ブルースとの運命的な出会い|ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズ時代
クラプトンが本格的に“ブルースギタリスト”として覚醒したのは、ジョン・メイオール&ブルースブレイカーズに加入した1965年のことだった。
ヤードバーズ脱退後、ポップス路線に違和感を覚えていたクラプトンが向かったのは、より本格的なブルースだった。
そこで彼を迎え入れたのが、“ブリティッシュ・ブルースの父”とも呼ばれるジョン・メイオールだった。
クラプトンが在籍したのは約1年ほど。短い期間ではあったが、その間に録音されたアルバムが歴史的名盤として今も語り継がれている。
名盤『Blues Breakers with Eric Clapton』で見せた真のブルース魂
1966年にリリースされたアルバム
**『Blues Breakers with Eric Clapton(通称:Beanoアルバム)』**は、イギリスのロック/ブルース界に衝撃を与えた。
この作品でクラプトンは、ギブソン・レスポール+マーシャルアンプという当時としては珍しい組み合わせで、太く、サスティンの効いた“泣きのトーン”を確立した。
クラプトンのプレイはブルースの伝統を踏襲しつつも、若さと情熱があふれており、リスナーに「これはただのカバーじゃない、“自分のブルース”だ」と感じさせる説得力を持っていた。
中でも代表曲は以下のようなナンバー:
- All Your Love(オーティス・ラッシュのカバー)
- Hideaway(フレディ・キングのインスト名曲)
- Have You Heard(クラプトンのギターが美しく響く)
このアルバムは、後進のブリティッシュ・ブルースマンやギタリストたちに多大な影響を与え、クラプトン自身の名声を決定づけた1枚でもある。
なぜ脱退したのか?クラプトンの“旅”のはじまり
このままブルースブレイカーズにとどまるかと思いきや、クラプトンは突如バンドを離れる。
その理由は、シンプルに言えば「もっと自由に、自分の音楽を追求したかった」からだ。
クラプトンは音楽を「表現の場」として捉えていたが、バンドの枠組みではそれができないと感じていた。
同時に、リズムセクションとの演奏にストレスを感じていたとも言われている。
そして彼は、ベーシストのジャック・ブルース、ドラマーのジンジャー・ベイカーと共に、よりアグレッシブで即興性の高いロックバンド「クリーム」を結成。
ここから、ギター・ヒーローとしてのクラプトンの本格的な“旅”が始まるのだった。
伝説のパワートリオ「クリーム」|ロック史に残る“音の爆発”
ブルースブレイカーズを離れたクラプトンが次に結成したのが、**クリーム(Cream)**だった。
1966年に結成されたこのバンドは、ロック史上初の「スーパーグループ」としても知られる。
メンバーは全員が腕利きのミュージシャン:
- エリック・クラプトン(ギター&ボーカル)
- ジャック・ブルース(ベース&ボーカル)
- ジンジャー・ベイカー(ドラム)
この3人によるトリオは、まるでジャズバンドのように即興で音をぶつけ合い、ステージ上で楽曲を“拡張”していくダイナミズムに満ちていた。
活動期間と代表アルバム
クリームの活動期間は、**わずか2年半(1966〜1968年)**と非常に短い。
だがその間にリリースしたアルバムは、どれも歴史的評価を受けている。
🎵代表アルバム一覧
- 『Fresh Cream』(1966)
デビュー作。ブルース色が濃く、ロウで骨太な音像。 - 『Disraeli Gears』(1967)
サイケデリックロック色が強まり、クラプトンのギターが炸裂。代表曲「Sunshine of Your Love」を収録。 - 『Wheels of Fire』(1968)
2枚組でリリースされた野心作。ライブ録音も収録され、即興の応酬が圧巻。名演「Crossroads」はこのアルバムから。 - 『Goodbye』(1969)
解散直前にリリースされた“別れのアルバム”。未練と円熟がにじむ。
使用機材|ギターの神様が鳴らした音
クリーム時代のクラプトンは、音作りでも時代をリードしていた。
🎸主な使用ギターとアンプ
- ギブソンSG “The Fool”
サイケデリックなペイントが施された伝説的モデル。サステインと粘り気のあるトーンが特徴。 - ギブソン・レスポール/ES-335なども使用
- マーシャルアンプ(スタック)
当時としては大音量&ディストーション重視のセッティング。この組み合わせが“クリーム・サウンド”を決定づけた。
クラプトンはマーシャル・スタックをフルテン(音量10)で鳴らし、ギターのボリュームで音をコントロールしていた。これにより、ギターが泣き、叫び、唸るような表現が可能になった。
ライブの即興バトルと緊張感
クリームのステージは、毎回“戦場”だった。
1曲が15分〜20分にもおよぶインプロビゼーション(即興演奏)は、観客にとってはスリリングな体験だったが、メンバー同士の衝突の原因にもなった。
特に、ジャック・ブルースとジンジャー・ベイカーの仲の悪さは有名。
リハーサル中に罵り合い、ステージ上で音をぶつけ合う――クラプトンはその間に立ち、音楽的にも精神的にも板挟み状態だったという。
なぜクリームを解散したのか?
音楽的には成功を収めたクリームだが、内部の人間関係は崩壊寸前だった。
クラプトンは次第に、「ただの音のぶつけ合い」に疲弊し始める。
また、当時のロックシーンが“巨大化”する中で、「もっと歌を大切にした音楽をやりたい」と考えるようになっていた。
彼は、アメリカのシンガー・ソングライター、ザ・バンドのような繊細で音数の少ないサウンドに惹かれていく。
こうして1968年、クリームは解散。
クラプトンは「ギター・ヒーロー」としてのイメージをいったん壊し、自分自身の音楽を探す旅に出る。
解散後の影響と評価
クリームの解散はファンにとって衝撃だったが、彼らが残した音楽はその後のハードロック、ジャムバンド、さらにはメタルにまで多大な影響を与えた。
特にクラプトンが演奏した「Crossroads」や「White Room」は、今なお多くのギタリストにコピーされ、語り継がれている。
デレク・アンド・ザ・ドミノスと「いとしのレイラ」|愛と苦悩の名作誕生
クリーム解散後、クラプトンは一時「ブラインド・フェイス」という短命バンドを経て、新たにデレク・アンド・ザ・ドミノスを結成。
このバンドは、クラプトンが「ギター・ヒーロー」のイメージから脱却し、よりパーソナルな音楽を追求するための新たな船出だった。
最大の注目作が、1970年にリリースされたアルバム:
🎵『Layla and Other Assorted Love Songs』
この作品は、“叶わぬ恋の叫び”をそのまま音楽にした作品であり、クラプトンの心情が赤裸々に綴られている。
冒頭のタイトル曲「Layla(いとしのレイラ)」は、友人ジョージ・ハリスンの妻・パティ・ボイドへの激しい想いをそのままぶつけたラブソングである。
🎸 前半の炸裂するようなギターリフは怒りと情熱、
🎹 後半のピアノパートは切なさと諦めを表現している。
ちなみにこのピアノパートは、当時のバンドメンバーで後に悲劇的な死を遂げるジム・ゴードンによるもの。
ライブでの評価と商業的な“失敗”
意外にも、『Layla〜』は当初は商業的に失敗とされていた。
内容があまりに重く、また“デレク”という仮名を使っていたため、クラプトンの作品と気づかれないリスナーも多かったのだ。
しかし、時間が経つにつれて再評価が進み、今では「ロック史に残る名盤」として確固たる地位を持っている。
ソロキャリアのはじまり|ギターより“歌”へ
1970年代前半、クラプトンは薬物依存の影響もあり、しばらく活動を停止していた。
しかし、1974年にソロとして完全復活を遂げたアルバムが登場する。
🎵『461 Ocean Boulevard』(1974)
このアルバムは、フロリダでのリハビリ後に録音されたもので、“ギターヒーロー”から脱却し、歌心を重視した作風となっている。
- 「I Shot the Sheriff」(ボブ・マーリーのカバー)は全米1位を獲得
- スライドギターやアコースティックの響きも取り入れ、より落ち着いた雰囲気に
クラプトン自身がこう語っている:
「ギターを“叫び”として使う時期は終わった。これからは“語りかける”ために使いたい。」
以降のソロキャリアでは、ブルース、レゲエ、ポップス、アコースティックなどジャンルを自由に行き来しながら、クラプトンは「語り手」としての立ち位置を築いていく。
愛と喪失を超えて|ティアーズ・イン・ヘヴンと再出発
そして1991年――
クラプトンに最大の悲劇が訪れる。
4歳の息子・コナーを事故で亡くした彼は、深い悲しみの中で『Tears in Heaven』を作曲。
この楽曲は彼自身のための“祈り”であり、世界中のリスナーの心を震わせた。
「もし天国で会えたら、君は僕の名前を覚えてくれてるだろうか?」
――その歌声は、あまりに静かで、深くて、痛いほど美しい。
クラプトンはこの曲をもって、ふたたび音楽の道を歩き始める。
アンプを絞っても、情熱は消えない|晩年のクラプトン
クラプトンは現在70代後半。
耳の病気や神経障害に悩まされながらも、いまだ現役で演奏活動を続けている。
晩年の作品には、もはやテクニックを誇示するような要素はない。
あるのは、削ぎ落とされた“音の言葉”と、“生きてきた時間”の重み。
- アルバム『Unplugged』ではアコースティックギターで過去の楽曲を再構築
- 『Old Sock』『I Still Do』など、穏やかで内省的な作品も多い
ライブでは、かつてのような爆音ではなく、控えめなアンプ、優しい音色、最小限のフレーズで観客の心を掴む。
スキャンダルと転落|ドラッグ・アルコール依存との闘い
クラプトンの人生において避けては通れないのが、依存症との壮絶な闘いである。
70年代、彼はドラッグ(特にヘロイン)とアルコールに溺れ、自宅から姿を見せない日々が続いた。音楽活動も事実上停止状態。ファンから「クラプトンは死んだのか?」と噂されるほどだった。
当時の彼は、自らのことを「世界で最も孤独な男」と語っている。
しかし、友人たちやファンの支え、そして音楽への情熱が彼を再生へと導く。1980年代にはリハビリを繰り返し、徐々に音楽の現場へと戻ってくる。
息子コナーの死と「ティアーズ・イン・ヘヴン」
1991年、クラプトンにとって人生最大の悲劇が起きる。
4歳の息子コナーが、ニューヨークの高層マンションの窓から転落して亡くなったのだ。
そのショックはあまりに大きく、しばらく音楽すら手につかなかったという。
しかし、彼はこの悲しみを音楽に変える決意をし、書き上げたのが『Tears in Heaven』だった。
この楽曲は世界中のリスナーの心を打ち、彼の再生の象徴ともなった。
“Would you know my name, if I saw you in heaven?”
(天国で君に会ったら、僕のことを覚えていてくれるかな)
この一節には、父親としてのクラプトンの心の叫びが込められている。
クラプトンを語る名言たち
クラプトンの語る言葉には、音楽家としての覚悟と、人間としての弱さが同居している。
- 「ギターは僕の武器であり、癒しだった。」
- 「僕が泣きたいとき、ギターが泣いてくれた。」
- 「人生はブルースそのものさ。悲しみがないと音楽にはならない。」
彼の発する言葉は、単なるミュージシャンではなく、“魂を音に変える男”であることを物語っている。
なぜ今、クラプトンを聴くべきなのか?
エリック・クラプトンは今もなお、音楽を止めていない。
70代後半になった今も、彼はライブを行い、新たな楽曲を生み出している。
その演奏には、若い頃のテクニック重視ではなく、“削ぎ落とされた表現”がある。
彼が歩んできた痛みと再生の道は、そのまま音として聴き手の心に届く。
クラプトンの音楽は、時代を超えて共感される“人間の記録”だ。
クラプトンのギターが語るもの
エリック・クラプトンの人生は、決して美談ではない。
過ちもあり、喪失もあり、逃げ出したくなるような日々もあった。
だが彼は、それをすべて音楽に昇華してきた。
クラプトンの音を聴くとき、そこにはテクニックや理屈を超えた“生き様”がある。
だからこそ、多くの人が彼の音に救われ、涙し、勇気をもらってきた。
もしあなたが、今ちょっと人生に迷っているなら――
クラプトンの『Tears in Heaven』や『Layla』を聴いてみてほしい。
きっと、ギターの音が語りかけてくるはずだ。
「君は一人じゃない」と。
エリック・クラプトンと関わりのある有名人たち|友情・恋愛・セッションの記録
🎸ジョージ・ハリスン(ビートルズ)
最も有名な関係性のひとつ。
音楽的にも私生活でも深く関わっており、『While My Guitar Gently Weeps』ではクラプトンがギター参加。
ハリスンの妻パティ・ボイドを巡る恋愛関係(のちにクラプトンと結婚)もありながら、ハリスンはクラプトンとの友情を手放さなかった。
ハリスンが亡くなった際、クラプトンは追悼コンサートを全面プロデュース。
🎤ボブ・ディラン
70年代から親交があり、**ライブ共演やフェス出演(Live Aid、The Concert for Bangladeshなど)**も。
クラプトンはディランの言葉の世界観に深く影響を受けたと語っており、ディランの楽曲「Knockin’ on Heaven’s Door」などをライブでカバーすることも。
1992年のディラン30周年記念コンサートでは、クラプトンが「Don’t Think Twice, It’s All Right」を演奏。
🎸ジミ・ヘンドリックス
クラプトンがクリーム時代、「ジミ・ヘンドリックスの初ライブ(ロンドン)」に観客として参加。
そのあまりの衝撃に、クラプトンは楽屋でタバコに火をつけながら**「もう俺の時代は終わった」とつぶやいた**という伝説の逸話あり。
後年、クラプトンはヘンドリックスを「唯一、自分を圧倒したギタリスト」と評している。
🎤ビリー・プレストン(通称“5人目のビートルズ”)
クラプトンとセッション経験があり、共にブルースやソウルのイベントで演奏したこともある。
ゴスペルやR&Bのバックグラウンドを持つプレストンのキーボードと、クラプトンのブルージーなギターは好相性だった。
🎙️ティナ・ターナー
クラプトンはティナ・ターナーのソロキャリア復活時期にも楽曲参加や共演を行っている。
クラプトンが弾くギターとティナのパワフルなボーカルの掛け合いは、80年代を代表するコラボのひとつ。
🎬メル・ギブソン(俳優)
映画『リーサル・ウェポン』シリーズのサウンドトラックでクラプトンはギターを提供。
メル・ギブソンとはプライベートでも親交があり、当時ギブソンが抱えていたアルコール依存問題にクラプトンが寄り添ったことも。
同じ依存症経験者として、支え合っていたという。
🎬シャロン・ストーン、ゴールディ・ホーン など
クラプトンは80〜90年代、ハリウッド女優との交際報道も多かった。
特にシャロン・ストーンとの交際は有名で、クラプトンのプレイボーイ的な一面を象徴するエピソードのひとつとされている。
🎸B.B.キング
クラプトンにとって最大のアイドル。
2000年にはコラボアルバム『Riding with the King』をリリース。
二人のブルースギターが重なるこの作品は、グラミー賞を受賞し、多くのファンを喜ばせた。
B.B.キングは晩年、「エリックは自分の“白人の息子”だ」と語っていた。
補足:他にも多数の共演者・関係者たち
- ジェフ・ベック(同じ英国ギターシーンの盟友)
- ミック・ジャガー、キース・リチャーズ(ローリング・ストーンズ)
- ポール・マッカートニー(複数セッションあり)
- フィル・コリンズ(クラプトンのアルバムにドラマーとして参加)
- マーク・ノップラー(ダイアー・ストレイツ)(ツアー共演あり)
クラプトンは“人を惹きつける磁場”を持つ男
クラプトンは、ただのギタリストではなく、音楽と人生の両方を全身で表現してきた人物。
だからこそ、彼の周囲には常に大物ミュージシャンや俳優、文化人が集まり、その人生は“時代そのもの”でもある。
彼と交わった人々の多くが語るのは、**「静かだが、強烈な存在感」**という共通の印象。
まさにクラプトンは、音を通して心を揺さぶる「生きる伝説」なのだ。